「赦(ゆる)しと自由」2024.3.24

 

今日から教会暦における

「受難週」がはじまります。

イエス・キリストの

エルサレム入城から、

十字架につけられ

死なれ葬られるまでの

最後の一週間の歩みを

覚えて過ごします。

 

十字架刑は、当時、

重罪人に対して行われた

最も苦しい処刑方法でした。

十字に交差させた木に、

くぎなどで手足を打ちつけ、

その木を地面に立てて

はりつけにしますが、

その状態では、

体が下に下がって行き、

呼吸困難におちいります。

そこで息をするために、

体を上に持ち上げますが、

何度も繰り返すうちに力がつき、

息ができなくなって絶命します。

 

何時間も、ひどい場合には、

数日間も苦しむ残酷な刑でした。

このような十字架の苦しみを

受ける中で、イエス様は、

7つの言葉を十字架の上から

語られました。

 

今日は、その中から次の2つの言葉、

@「父よ、彼らをおゆるしください。

彼らは何をしているのか、

わからずにいるのです」。

(ルカによる福音書3:34)

A「よく言っておくが、

あなたはきょう、わたしと一緒に

パラダイスにいるであろう」。

(ルカによる福音書3:43)

について考えてみたいと思います。

 

1.赦しの恵みについて

(1)神との和解

このような恐ろしい十字架刑に

イエス様が処せられ、

血を流されて死なれた理由は、

私たちの罪を赦し、

私たちを神に導くためでした。

「わたしたちは、御子にあって、

神の豊かな恵みのゆえに、

その血によるあがない、すなわち、

罪過のゆるしを受けたのである。」

(エペソ人への手紙1:7)

 

罪びとである人間は、

罪の赦しを受けなければ、

神の前に出ることはできません。

罪の中で生まれ、

罪の中で生き、

罪の中で死んで、

永遠の滅びに向かうしかない、

絶望的な存在である、

そんな私たちのために、

罪のないイエス様が

身代わりとなって、

自ら十字架にかかることで、

私たちは罪の赦しを受け、

その結果、私たちを、

神と和解させて下さいました。

 

罪を一度も犯したことのない

イエス様を十字架刑に処したのは、

当時の宗教指導者たちであり、

総督ポンテオ・ピラトであり、

群衆たちです。

 

群衆たちは、数日前まで

イエスをほめたたえていたのに、

自分たちの思い通りに

行動しなかったイエスに背を向け、

「十字架につけよ」と

叫び求めたので、

総督ポンテオ・ピラトは

群衆を恐れて、

イエスに十字架刑の

宣告を下したのでした。

 

そんな彼らが赦されますようにと、

イエスは十字架の上で、

父なる神にこう祈られたのです。

「父よ、彼らをおゆるしください。

彼らは何をしているのか、

わからずにいるのです」。

(ルカによる福音書3:34)

 

みなさん、

これは2000年前だけに

起きたことではありません

今日、私たちは、

イエス様を信じますと言いながら、

知らず知らずのうちに

主を深く傷つけ、主を裏切り、

主の心を痛め、悲しませることが、

どれほどあるか分かりません。

主の御心通りに生きないならば、

私たちは主を再び十字架につける

ことになるのです。

互いに憎しみ、争い、

他人を苦しめることは、

主の御体に再びくぎを

打ちこむことになるのです。

 

このような生き方を、

私たちは徹底的に

悔い改めなければなりません。

「もし、わたしたちが

自分の罪を告白するならば、

神は真実で正しいかたであるから、

その罪をゆるし、

すべての不義から

わたしたちをきよめて下さる。」

(ヨハネの第1の手紙1:9)

 

もし、あなたが、

自分の罪を悔い改めるなら、

あなたと神様との関係が回復し、

新しい人生がはじまります。

闇が光に変わり、

苦しみの中から回復し、

天の扉は開かれます。

 

2)人との和解

聖書は、

「祭壇に供え物をささげる」こと、

すなわち「礼拝」を、

後回しにしてでも、

人と和解しなさい、

仲直りしなさいと勧めています。

「だから、祭壇に供え物を

ささげようとする場合、

兄弟が自分に対して

何かうらみをいだいていることを、

そこで思い出したなら、

その供え物を

祭壇の前に残しておき、

まず行ってその兄弟と和解し、

それから帰ってきて、

供え物をささげることにしなさい。」

(マタイによる福音書5:23-24)

 

イエス様が、条件を付けずに

私たちを赦してくださったように、

私たちも隣人の過ちを

赦さなければなりません。

そうするなら、神様は私たちに、

恵みを注いでくださいます。

イエス様がこのように祈りなさいと

教えられた「主の祈り」の中にも

こうあります。

「我らに罪をおかす者を

我らが赦すごとく、

我らの罪をも赦したまえ。」

 

私たちは知らず知らずのうち

罪をおかします。

ひっきりなしに罪をおかします。

自分の罪の赦しを得ようとするなら、

まず自分に対して罪を犯した人を

先に赦さなければならないのです。

それが神様の前に出られる

第1条件です。

 

3)赦しと自由

赦しは自由を与えます。

それは人を赦すときに与えられる

心の自由と平安です。

イエス様を信じれば、

人を赦すことができるようになり、

心の中にある全ての縛りから

自由になります。

「あなたがたは真理を知り、

真理はあなたがたを

自由にします。」

(ヨハネによる福音書8;32)

 

「わたしは道であり、

真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、

父のみもとに行くことはできない。」

(ヨハネによる福音書14:6)

と言われたイエス様を信じるなら、

病気の束縛、

隣人との争いの束縛、

憎しみの束縛、

貧困の束縛、

怒りの束縛、

このような束縛から解放され、

真の自由を享受しながら、

驚くべき神の祝福の中で

生きられるようになるでしょう。

 

2.救いの恵み

イエス様が十字架につけられたとき、

凶悪な強盗が二人、

イエス様の左右に

十字架につけられました。

そのうちの一人は、

「あなたはキリストではないか。

それなら、自分を救い、

またわれわれも救ってみよ」と、

イエス様に悪口を言いつづけました。

 

もう一人は、それをたしなめて

こう言いました。

「おまえは神をも恐れないのか。

おまえも同じ刑罰を

受けているではないか。

われわれは、

自分のしたことの報いを

受けているのだからあたりまえだ。」

そして、イエス様に向かって

こう言いました。

「イエスよ、あなたが御国の

権威をもっておいでになる時には、

わたしを思い出してください」。

 

イエスは彼にこう言われました。

「よく言っておくが、

あなたはきょう、

わたしと一緒に

パラダイスにいるであろう」。

(ルカによる福音書23:43)

これが、イエス様が十字架上で

2番目に語られた言葉でした。

 

彼は、凶悪な罪びとして生きてきて、

死の直前に、ほんの数分、

いやわずか数秒の中で、

救いの恵みを体験したのです。

主の十字架の言葉は、

いかなる罪人であっても、

救いを得させる

驚くべき力があります。

 

救いの恵みにあずかるための

唯一の条件は、

イエス・キリストを救い主として

信じることです。

信じれば誰でも救われて、

神様の子どもとなり、

パラダイス(神がおられる天)に

行くことができるのです。

イエス様を信じなければ、

絶対に天国に入ることはできません。

 

3.新生の恵み

天国は人生が終わった後にだけ

行くところではありません。

地上でも心の中に天国を

所有することができます。

 

イエスを信じた瞬間に、

私たちのたましいの内に

天国がのぞみ、

地上においても

つねに天国を経験できるよう

聖霊が導いてくださいます。

 

人生は本当に短いのです。

あっという間に死を迎えます。

しかし、人生は、決して

むなしいものではありません。

十字架の恵みを受ければ、

恵みと祝福と喜びの中で

自由に生きられます。

 

真心をもって主を信じ、

主に従いさえすれば、

主は私たちの人生に

深く関わってくださり、

私たちを新しく造り変えて下さるのです。

「だれでもキリストにあるならば、

その人は新しく造られた者である。

古いものは過ぎ去った、見よ、

すべてが新しくなったのである。」

(コリント人への第2の手紙5:17)

 

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