「主の住まいを慕い求めよ」2024.2.11

 

愛は偉大な力を持っています。

まことの愛は全てを与え、

自分が犠牲になっても、

惜しいとは思いません。

親から子への愛は、

そのようなものです。

 

若いときには、

それに気づきませんでした。

自分も親になって年を取ると、

親の深い愛、

無条件の愛に気づかされ、

感謝せずにいられません。

 

しかし、今はもう親はいません。

もどかしい気持ちで、

そんな親のことを

たびたび思い出します。

 

イエス様は私たちを愛され、

私たちのすべての罪と不義を

贖(あがな)うために、

自ら十字架にかけられました。

私たちはそのイエス様を

救い主として信じ、

神の子とさせていただいた、

返すことのできない恵みと

愛の借りがあります。

それゆえ何よりも熱く、

主を愛さなければなりません。

 

そして私たちは、疎外され、

問題の中で苦しみ、

また病んでいる人に、

主の愛を分かち合う者と

ならなければなりません。

 

1.主の宮を愛する信仰

イスラエルの民がエジプトを出て、

荒野の旅をするあいだ、

彼らは神殿を建てることが

できないので、

移動式の神殿である

幕屋を建てました。

 

幕屋の中では、

モーセの十戒が刻まれた

石の板をおさめた

「契約の箱(アーク)」が置かれ、

祭司が神と会見しました。

 

やがてイスラエルの国が建てられ、

ソロモン王の時代に、

立派な神殿が

エルサレムに建てられ、

そこに「契約の箱」を安置して、

神殿を中心にして礼拝が

ささげられるようになりました。

神殿は神がおられる場所であり、

人間が神と出会う唯一の

場所だったのです。

 

このように幕屋や神殿は、

主が住まわれる場所ですので、

聖書の中で「主の宮」、

「主のすまい」と、

表現されています。

 

詩編84篇の記者は、

息が絶えるほど、

主の宮を慕い求めたと、

告白しています。

「万軍の主よ、

あなたのすまいは

いかに麗しいことでしょう。

わが魂は

絶えいるばかりに

主の大庭を慕い、

わが心とわが身は

生ける神にむかって

喜び歌います。」

(詩篇84:1-2)

ダビデもまた、

艱難の真っただ中で、

主の宮で、主と交わり、

主を礼拝することが、

自分の第一の願いであると

告白しました。

「わたしは一つの事を

主に願った、

わたしはそれを求める。

わたしの生きるかぎり、

主の家に住んで、

主のうるわしきを見、

その宮で

尋ねきわめることを。」

(詩編27:4)

 

愛する人とは

一瞬でも離れたくない、

離れていても

いつもその人を思い、

そばに行きたい、

一緒に語り合いたい、

手をつないで歩きたい、

良いものを与えたい、

全て与えても惜しくない、

そう思うのが真の愛です。

神様と私たちの関係も、

そのような愛の関係と

なるべきです。

 

主を愛している私たちは、

ダビデや詩篇の記者のように、

主の宮(教会)に来て、

礼拝を捧げ、主に感謝し

主を讃美しなければ

なりません。

そのような私たちに、

主は驚くべき恵みを

注いでくださるでしょう。

 

エルサレムの神殿は、

ソロモン王が建築し、

ソロモンは神から大きな

恵みを受けました。

後にも先にも、

ソロモンほど栄華を極め、

神の恵みと豊かさ受けた

人はいません。

主の家の建築に献身した人は、

魂と健康と人生のすべてが恵まれ、

主がいつも共にいてくださり、

あなたが気づいてないときも

守られ、大いなる恵みに

あずかる人生になるでしょう。

 

主の宮を慕い求めることにより

神様の恵みと祝福を、

みなさんが享受されますように。

主の家に仕えるとき、

祝福はのぞむのです。

 

2.主の宮に住む人たちにくださる祝福

主の宮に住む人は幸福になると

聖書は語っています。

「すずめがすみかを得、

つばめがそのひなを

いれる巣を得るように、

万軍の主、わが王、わが神よ、

あなたの祭壇のかたわらに

わがすまいを得させてください。

あなたの家に住み、

常にあなたを

ほめたたえる人は

さいわいです。」

(詩篇84:3-4)

 

絶望と苦しみの中にいても

主の宮(教会)に来て、

主にお会いすれば、

主がすべての問題を

解決してくださり、

主を讃美すれば、

主の霊が私たちにのぞみ、

驚くべき主のみわざを

なしてくださいます。

主は私たちの讃美を

住まいとされるからです。

「あなたは聖であられ、

イスラエルの賛美を

住まいとしておられます。」

(詩篇22:3)

 

みなさん、ぜひ教会に来て、

主を讃美し、主の御言葉を

聞いてください。

そうすれば喜び楽しみながら

勝利の人生を、

歩んで行くことができます。

 

サムエルは、

主の声を聞いて力を尽くして祈り、

主は彼を尊く美しく偉大に

用いられました。

「主はきて立ち、前のように、

『サムエルよ、サムエルよ』と

呼ばれたので、

サムエルは言った、

『しもべは聞きます。

お話しください』。」

(サムエル記上3:10)

 

神様を愛し、

神様を第一とする生活を

送りましょう。

そうすれば必要なものは

すべて与えられます。

まず神の国と神の義とを求めなさい。

そうすれば、これらのものは、

すべて添えて与えられるであろう。

(マタイによる福音書6:33)

神様を二の次、三の次にして、

この世中心の人生を送ると、

いつか大事なものが

人生から消えていくことに

気づくでしょう。

 

ですから私たちは、

主の宮中心、礼拝中心、

祈り中心の信仰者と

ならなければなりません。

主の宮を慕い求め、

喜びをもって主に仕えて、

主からの大きな祝福を

どうか享受されますように。

 

3.讃美と感謝の人生

昨日の夜、雨があがったので

買い物に出かけました

雨上がりの空気はとても新鮮で、

今日は素晴らしい日だなと

思いながら夜空を見つめました。

 

私たちは感謝を忘れます。

息ができることが、

どれだけ感謝でしょうか。

自分の足で外に行けることが、

どれだけ感謝でしょうか。

当たり前に思っていることは

当たり前ではないのです。

 

私たちがイエス様を信じて

救われたことは、

一生涯の奇跡なのです。

主に出会った後の人生は、

いつも主に感謝し、

常に主を讃美する人生に

ならなければなりません。

あなたの家に住み、

常にあなたをほめたたえる

人はさいわいです。

(詩篇84:4)

 

神が人を創造した理由が、

イザヤ書に記されています。

この民は、

わが誉を述べさせるために

わたしが自分のために

造ったものである。

(イザヤ書43:21)

神が人間を創造された理由は、

人間を通して讃美をうけることを

望まれたからです。

 

ゆえに、いかなる困難や

苦しみが近づいても、

落胆せず、心配もせずに、

ただ神に祈り、

神に感謝し、

神を讃美してください。

そうすれば、

喜びが満ち溢れます。

「わが魂よ、

何ゆえうなだれるのか。

何ゆえわたしのうちに

思いみだれるのか。

神を待ち望め。

わたしはなおわが助け、

わが神なる主を

ほめたたえるであろう。」

(詩編42:5)

 

感謝と讃美は、

私たちの本分であり、

感謝と讃美によって、

祝福と平安と健康に満ちた

人生の扉が開かれるのです。

 

どんなにこの世的に

恵まれていても、

讃美と感謝が口から消えるとき、

その人生は、

闇に包まれていきます。

しかし、感謝と讃美をするなら、

神様が力を与えてくださり、

人生を導いてくださいます。

 

人生は一度きりです。

霧のように現れて

たちまち消え去る

束の間の人生です。

このような大切な人生、

神からの賜物として

与えられた人生を、

感謝し、讃美して

生きることによって、

大きな祝福を享受されますように

主の御名によって

お祈りいたします。

 

「交野ベタニヤ教会」ホームへ

 

1 1