「霊的な眠りから目覚めよ」2022.8.21
週の初めの日に、
わたしたちがパンをさくために集まった時、
パウロは翌日出発することにしていたので、
しきりに人々と語り合い、
夜中まで語りつづけた。
わたしたちが集まっていた屋上の間には、
あかりがたくさんともしてあった。
ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、
パウロの話がながながと続くので、
ひどく眠けがさしてきて、
とうとうぐっすり寝入ってしまい、
三階から下に落ちた。
抱き起してみたら、もう死んでいた。
そこでパウロは降りてきて、
若者の上に身をかがめ、
彼を抱きあげて、
「騒ぐことはない。まだ命がある」と言った。
そして、また上がって行って、
パンをさいて食べてから、
明けがたまで長いあいだ
人々と語り合って、ついに出発した。
人々は生きかえった若者を連れかえり、
ひとかたならず慰められた。
(使徒行伝20:7-12)
眠りは体の健康のために欠く事ができません。
しかし、居眠り運転が大事故を引き起こすように、
目を覚まさなければならない時に眠れば問題が生じます。
聖書は怠けて眠ってばかりいる人に、
次のように警鐘を鳴らしています。
「しばらく眠り、しばらくまどろみ、
手をこまぬいて、またしばらく休む」。
それゆえ、貧しさは盗びとのように、
あなたに来、乏しさは、つわもののように、
あなたに来る。(箴言24:33-34)
1.御言葉を伝えるパウロ
本日の聖書箇所には、
使徒パウロが第三回伝道旅行の終わりを迎え、
エルサレムに向かう途中、
トロアスで起きた出来事が記されています。
パウロが人々に御言葉を伝えると、
多く人たちが集まり、耳を傾けました。
御言葉は魂の糧であり、
私たちは御言葉を通して新しくされ、
力を得て、変化して、
神の恵みをさとるようになります。
御言葉は人生の道標なのです。
あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。
(詩篇119:105)
いつも御言葉を慕い求めて歩む人生を
みなさんと私が歩まれますよう願います。
イスラエルの民が捕囚の地バビロンから
母国に戻ったとき、
彼らは集まって神様の御言葉を聞き、
全員が大きな感激と喜びに包まれたことが
聖書に記録されています。
エズラはすべての民の前にその書を開いた。
彼はすべての民よりも高い所にいたからである。
彼が書を開くと、すべての民は起立した。
エズラは大いなる神、主をほめ、
民は皆その手をあげて、
「アァメン、アァメン」と言って答え、
こうべをたれ、
地にひれ伏して主を拝した。
(ネヘミヤ8:5-6)
神様の御言葉は、
私たちに与えられた祝福の御言葉であり、
恵みの御言葉であり、奇跡の御言葉であり、
回復の御言葉であり、癒しの御言葉です。
御言葉は神ご自身です。
それゆえ、御言葉を読む時、
御言葉が生きて働いて
私たちの心と身体を癒やします。
また、間違った思いを切り離します。
神の言は生きていて、
力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、
精神と霊魂と、関節と骨髄とを
切り離すまでに刺しとおして、
心の思いと志とを見分けることができる。
(ヘブル4:12)
御言葉を読むとき、また聴くとき、
その御言葉は生きて働いて、
私たちを悔い改めさせ、
そして新たな力を与え、
慰めと喜び、平安と希望をもたらし、
神の御心を悟らせ、
信仰によって勝利する人生を歩めるように
導いてくださるのです。
2.眠り込んだ青年について
トロアスで、多くの人々が、
パウロの話に聞き入っていた時、
ユテコという若者が窓際で深く眠り込み、
下に落ちて死んでしまいました。
なぜ彼はこうなってしまったのでしょうか。
それは御言葉に対する飢え渇きが
なかったからです。
彼が前の方に座って御言葉を熱心に求めたなら、
このようなことにはならなかったでしょう。
イエス様がマルタとマリヤの家を訪ねた時、
姉のマルタはイエス様の食事の準備を
するのに忙しくしていました。
ところが妹のマリヤは、
イエス様の足元に座って、
御言葉に聞き入っていました。
マルタは不満に思いイエス様に向かって
「主よ、妹がわたしだけに
接待をさせているのを、
なんともお思いになりませんか。
わたしの手伝いをするように
妹におっしゃってください」。
(ルカ10:40)
と言いました。
イエス様は答えて言われました。
「マルタよ、マルタよ、
あなたは多くのことに心を配って
思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。
いや、一つだけである。
マリヤはその良い方を選んだのだ。
そしてそれは、彼女から
取り去ってはならないものである」。
(ルカ10:41-42)
人生において大切なのは優先順位です。
何が大切か、何を先にするべきか、
これが分かっている人は祝福に与れます。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、
すべて添えて与えられるであろう。
(マタイ6:33)
ユテコの問題は、
霊的に眠ってしまったことです。
人は霊的な眠りに落ちると、
礼拝を粗末にするようになります。
みなさん、礼拝を捧げる時は、
決して見物人にならないでほしいのです。
礼拝に全力を尽くしてください。
礼拝に来たならば、
恵みを受けなければなりません。
祈りの目を覚まし、賛美の目を覚まし、
御言葉を聞く耳を開くべきです。
霊的な眠りから目を覚ますべきです。
そうすれば、神様は天の扉を開かれ、
私たちに祝福を注いでくださいます。
わが神、主よ、みそなわして、
わたしに答え、
わたしの目を明らかにしてください。
さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
わたしの敵は「わたしは敵に勝った」
と言い、わたしのあだは、
わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。
(詩篇13:3-4)
3.生き返った青年
悪魔の仕業は盗み殺し滅ぼすことであり、
イエス様の御業は生かすことです。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、
滅ぼしたりするためにほかならない。
わたしがきたのは、羊に命を得させ、
豊かに得させるためである。
(ヨハネ10:10)
ユテコが死んだ時、
パウロも降りてきて彼を抱きあげて
こう言いました。
「騒ぐことはない。まだ命がある」
(使徒行伝20:10)
人々は大騒ぎしていたのでしょう。
パウロはこう言うとまた上がって行き、
人々と語り合いました。
ここに一つの教訓があります。
教会や皆さんの人生に問題が発生したとき、
大変だ大変だと騒ぎ立てる必要はない、
ということであります。
大騒ぎして問題を言い広めたり、
心配して右往左往するべきではない、
ということです。
信ずる者はあわてることはない。
(イザヤ28:16)
私たちはパウロのように、
問題を抱きあげて神様に祈るべきです。
イエス様が会堂司ヤイロの娘を癒されたとき、
家の人々は娘が死んでしまったと騒いでいました。
イエス様は家の中に入って、
「なぜ泣き騒いでいるのか。
子供は死んだのではない。
眠っているだけである」。
(マルコ5:39)と言われ、
イエスをあざ笑った人々を追い出しました。
つまり、否定的な心を持って
騒いでいる人々を外に出し、
娘の父母と共の者たちだけを
連れて娘のいる所に入り、
そして、よみがえらせたのです。
みなさん、今日からはどんな事があっても、
ポジティブな告白だけをしてください。
人生に悲しいことや苦しい事がないなどと
いうことはあり得ません。
事件や事故があり、仕事、人間関係、
さまざまなところで問題がある。
これが人生です。
しかし、問題が発生した時、
それを抱えて祈りなさい、
そして勝利しなさいというのが
聖書の教えであります。
みなさん、ポジティブになってください。
良い話は広く伝え、
よくない話は騒がずに
それを抱えて祈ってください。
そうすれば、神様が祈りを通して
問題を解決してくださり、
皆さんの人生と教会を
リバイバルさせてくださいます。
マーチン・ロイドジョンズ牧師は、
「信仰は思考することであり、
信仰を持たないことは
考えないことである。」
と述べています。
困難な現実を前にして、
否定的な考えや恐れが押し寄せてきたとき、
信仰の薄い人は考えることをやめて
諦めてしまいますが、
信仰に固く立つ人は
思考することを諦めません。
パウロがユテコを抱きあげて祈った時に
奇跡が起きました。命を取り戻したのです。
人々は生きかえった若者を連れかえり、
ひとかたならず慰められた。
(使徒行伝20:12)
静まって祈る時、
神様の慰めが私たちに注がれ、
神様が力強い勝利の右の手を持って
問題に打ち勝つことのできる恵みを
与えてくださいます。
問題を抱えて祈る時、
ポジティブに告白する時、
闇の勢力は人生から追い払われます。
私たちが霊的に目を覚ましており、
何か問題が生じたときに
静まって問題を抱きかかえて祈れば、
神様は全ての問題の解決の道を
開いてくださいます。