「血を流すことがなければ、罪のゆるしはありません」2021.8.1

 

1.エデンで流された血

アダムとエバは、エデンの園で神様の命に背いて罪をおかしました。

このとき神様は、彼らの罪の恥をかくすために、裸のふたりに動物の皮で服をつくって着せてくださいました。

彼らのために動物の血が流されたのです。

このようにして神様は、罪がゆるされ神様の御前に出るためには血が流されなければならないことを教えてくださいました。

すべての人は罪人です。私たちは死刑判決を受けた存在なのです。

なぜなら「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と聖書に記されているからです。

この問題は、私たち人間が自分の力で解決することはできません。

いかに努力しても、どんなに善行を積んでも、解決できません。

血を流すことなしに、罪のゆるしはあり得ないのです。

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)

 

2.旧約時代のいけにえについて

このように、人間が神様の御前に進み出るためには、罪の問題を解決しなければなりません。

旧約の時代、神様は動物をいけにえとしてささげることを通して、神様の御前に出られるようになる恵みを与えてくださいました。

自分の身代わりに動物が葬られ、その動物の血で罪のあがないを得る。アダム以降、旧約時代においては動物の血で罪を洗い清めてきたのです。

残酷に聞こえるかもしれませんが、罪というものは軽いものではないのです。

ひとつの命、罪なき動物の命をうばうことなしには、罪のゆるしはなしとげられないのです。

しかし、このやり方も一時的な効果しかありませんでした。また、その罪に該当するいけにえが必要とされました。

動物の血では、人間のすべての罪を、永遠にあがなうことはできなかったのです。

 

3.イエス・キリストの血潮について

このように旧約時代は、罪のゆるしをうけるために、何度も動物の血をささげる必要がありました。

しかし、イエス・キリストは神の御子でありながら、人となってこの世にこられ、ただ一度、十字架にかかって全人類の罪のいけにえとなられました。

罪がない人間の血が、いけにえとしてささげられたのです。

大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。

もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。

しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。

(ヘブル9:25-26)

 

イエス様の血潮のあがないによって、それを信じる私たちは義と認められます。

彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

(ローマ3:24)

義とされるということは、一度も罪をおかさなかった人と認めてくださることです。

つまり、神様の御前に恥じることなく進み出て立つことができる資格が与えられたということです。

どれほど素晴らしい恵みでしょうか!

イエス様を信じれば誰でも罪があがなわれ、神の子となり、神様の御前に進み出ることができます。

これは一時的なものではありません。過去、現在、未来の全ての罪が清算される永遠の恵みです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネ3:16)

 

もし、この恵みがなければ、私たちに希望はありません。

なぜなら「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)からです。

イエス様の十字架のあがないの恵みがなければ、神様のさばきを受けて、火と硫黄の中に落ちるしかありません。

しかし、イエス様を信じる私たちには永遠の希望があります。

 

それだけでなく、私たちには病のいやしの希望があります。

イエス様が十字架につけられ、体を裂かれ血を流されたのは、罪のゆるしだけでなく、病のいやしのためでもあったのです。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

(イザヤ53:5)

イエス様の血潮に頼れば、病から解放されます。これは約束です。決して忘れてはなりません。

重い病にかかったとしても、妥協してはなりません。病に打ち勝つよう、祈り求めるべきです。

 

私たちは、罪ゆるされ義と認められ神様に助けを求めることができるようになったのですから「あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこう(ヘブル4:16)」ではありませんか。

むずかしくありません。すなおに神様に叫べばいいのです。

イエス様はそばにいて、あなたの叫びを聞こうとしておられます。叫べば答えてくださいます。

イエス様の血潮に頼れば、神様の御前に、はばかることなく大胆に進み出ることができる。これほど大きな特権はありません。

ですから、私たちはいつもイエス様の血潮の御力に頼りながら、日々生きるべきであります。

 

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