「エルサレムに入城されたイエス様」2021.4.2
本日、聖金曜日の夜に、
みなさんとともに受難日礼拝を捧げることが
できることを、感謝します。
私たちの罪と咎のために十字架につけられ、
尊い血を流して苦難を受けられたイエス様を
思い起こししながら、主の御声に耳を傾ける
幸いな時間を持ちたいと願います。
イエス様は平和の王としてエルサレムに入城
されたとき、馬に乗り兵士を従えて入城したの
ではなく、ろばの子に乗って入城されました。
21:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、
オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、
イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
21:2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、
ろばがつながれていて、
子ろばがそばにいるのを見るであろう。
それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
21:3 もしだれかが、
あなたがたに何か言ったなら、
主がお入り用なのです、と言いなさい。
そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
21:4 こうしたのは、預言者によって言われた
ことが、成就するためである。
21:5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、
あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、
ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
21:6 弟子たちは出て行って、
イエスがお命じになったとおりにし、
21:7 ろばと子ろばとを引いてきた。
そしてその上に自分たちの上着をかけると、
イエスはそれにお乗りになった。
21:8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を
道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切って
きて道に敷いた。
21:9 そして群衆は、前に行く者も、
あとに従う者も、共に叫びつづけた、
「ダビデの子に、ホサナ。
主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
いと高き所に、ホサナ」。
(マタイによる福音書)
ろばの子について、マルコによる福音書には、
「まだだれも乗ったことのないろばの子」
と記されています。(マルコ11:2)
ここにいくつかの特別な教訓があります。
まだ誰も乗ったことのないろばの子は、
私たちが主に用いられるためには、
純粋な信仰の姿をそなえるべきである、
ということなのであります。
心の器が綺麗であってこそ、
主に用いられ、主に認められ、
主よと心の叫びをあげる時、
その叫びが主の御座を動かすのです。
2:20 大きな家には、
金や銀の器ばかりではなく、
木や土の器もあり、そして、
あるものは尊いことに用いられ、
あるものは卑しいことに用いられる。
2:21 もし人が卑しいものを取り去って
自分をきよめるなら、
彼は尊いきよめられた器となって、
主人に役立つものとなり、
すべての良いわざに間に合うようになる。
(テモテへの第2の手紙)
心の中が、憎しみ、嫉妬、怒り、恨みなど
否定的なものでいっぱいになっているなら、
なかなか主に用いられないでしょう。
このようなものを心から追い出し、
義と平和と喜びが溢れる神の国が心にのぞむ時、
主に用いられ、賜物としての祝福された人生を
生きることができるのです。
主に用いられる心の準備ができているだろうかと、
たえず自分自身を省みるべきであります。
新型コロナウイルスが長期化していますが、
このような時に、受難週を迎えて、
主の前に来ることができたということは、
とても幸いなことです。
この時間、主の前に進み出て心の姿勢を整え、
御言葉を黙想し祈りながら主に喜ばれる姿に
変えられなければなりません。
知らず知らずに心が世の汚れに染められては
いないだろうか、純粋で美しかった私の姿が、
いつのまにか気づかないうちに堕落した姿になって
いないだろうかと、自身の姿を振り返りながら、
尊いイエス様の血潮で洗いきよめていただき、
子どものような純粋な姿に変えられなければ
なりません。
18:3 よく聞きなさい。心をいれかえて
幼な子のようにならなければ、
天国にはいることはできないであろう。
18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、
天国でいちばん偉いのである。
(マタイによる福音書)
私たちが神様に用いられるためには、
私たちが持っている才能や能力よりも、
しみや汚れのない純粋な姿で仕えることが
なにより重要なのです。
イエス様を初めて信じて教会に初めて導かれた
ときの純粋な姿に変えられるように私たちを導いて
ください、幼子のように純粋な姿で主に仕え、
主に用いられるようにしてくださいと、
祈る者になりましょう。
私たちが、ろばの子のようになれば、
主が栄光をお受けになって、
教会を通して素晴らしい御業を成し遂げて
くださると信じます。
一生涯、主に仕えながら、
主よ、私をろばの子のようにしてください、
私の考えではなく主の考えが成し遂げられ
ますようにと祈るとき、
大きな恵みと祝福がのぞみ、
心に大きな平和が宿るでしょう。