「王としてこられたイエス・キリスト」 2019.12.22
そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。(ルカ19:35-36)
本日の聖書箇所には、イエスが十字架につけられる前に、エルサレムへ入城せれるときの様子が記されています。ロバの子に乗ったイエスを、群集は賛美し、王なるメシアとして歓迎しました。イエス・キリストは、どのような王として私たちのところに来られたのでしょうか。
私たちが生きているこの世界は、神が創造されました。世界は、はじめは何の問題もない、完璧な、素晴らしい世界でした。しかし、神と等しくなり神の計画にあらゆる妨害を加えようとする悪魔が、エデンの園で神とともに生きていたアダムとエバを誘惑し、彼らが神を裏切るようにしました。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。(創世記3:1-4)
彼らはこの誘惑によって神にそむき、自ら堕落した結果、神から楽園を追放されました。それ以来、地はのろわれ、人間は悪魔に支配され、苦痛と悩みの中で生きるようになりました。悪魔に縛られた人間は、神に創造された本来の人間らしい人生を生きられなくなり、無意味と絶望にとらわれて生きなければならず、死という永遠なる滅びに向かう運命を歩むようになったのです
この状況から逃れようと、人間は、科学を発展させ、理想的な国家や社会を追求してきました。しかし、人類の歴史は憎しみと戦争の歴史であり、今もなお世界中で戦争や内紛が絶えません。医学が発達しても、最期には死んで土に帰る、そのような絶望的な存在であることに変わりないのです。
しかし、神様は人類をこの様な人生から救うために、イエスをこの世につかわされました。それは、悪魔のわざを滅ぼすためであり、神の国をたて、神の平和を与えるためでありました。イエスは悪魔の働きである死と病と悲しみと絶望を撤廃し、喜びといやしと希望と永遠の命を与えてくださったのです。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。(ヨハネ3:16-17)
アダムとエバが堕落して以来、神との関係が断絶していた人類が、王なるイエスをお迎えすると、霊の目が開かれ、聖霊と共に歩む恵が与えられます。
イエスは、うちひしがれた者に自由を与えてくださる王です。
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。(ルカ4:18-19)
イエスを信じる者は、すべての悪しきものから解放され、すべてのストレスから解放され、押さえつけられた人々に解放と自由が与えられます。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。(使徒10:38)
神からいただく恵みは、善行や苦行の代価として得られるのではなく、イエスを心の中心に迎え入れれば、だれでも値なしに与えられます。罪をおかし捨てられて当然である私たちなのに、イエスが十字架で流された尊い血潮の恵みによって、神の国と平和がのぞむのです。
みなさん、2000年前に王としてエルサレムに入城したイエスは、今も、あなたのところに王として来ておられ、心の扉をノックしておられます。みなさんが、王なるイエスをお迎えして、魂がめぐまれ、すべてが恵まれ、健やかな人生を生きられますようにと、主の名によって祝福します。