「キリスト者の人生の道」 2019.10.27
使徒パウロは、正当な血筋の生まれであり、ユダヤ教に関する深い知識を身につけ、
律法を厳格に守る、ユダヤ教の指導者でした。
当時のユダヤ人から、尊敬され、うらやまれるような存在です。
パウロは、ピリピ人への手紙の中で自分のことをこう語っています。
わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、
ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、
律法の義については落ち度のない者である。(ピリピ3:5-6)
ところが、これに続けてパウロは、彼にとって有益であったこれらすべてを、損失だと思うようになったと言います。
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。(ピリピ3:7)
その理由は、キリストを知ることが「絶大な価値」であるからだと。
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、
いっさいのものを損と思っている。(ピリピ3:8)
キリストを知ることは、もっとも尊いこと、何よりも素晴らしいことなのです。
この絶大な価値を前にすれば、この世のどんな価値あるものも「糞土」(ピリピ3:8)に等しいのです。
それは、「わたしがキリストを得るため」「キリストのうちに自分を見いだすようになるため」
であるとパウロは言います。(ピリピ3:8,9)
キリスト者は、イエスと結ばれ一体となっています。私たちはイエスのうちにいるのです。
だから私たちは、体が地上にあっても国籍は天にあり、ゆえに天の恵みに加わることになるのです。
わたしたちの国籍は天にある。
そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(ピリピ3:20)
これは、キリストを信じることによって与えられる「信仰による義」による救いの恵みであり、
自分の行いによって得られる「律法による自分の義」とは異なります。(ピリピ3:9)
私たちは、キリストを信じる信仰によって義と認められ救われましたが、
救われたものとしての責任が与えられている位置にいることも覚えておかねばなりません。
その責任とは、神の子らしく歩むということです。
あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。
光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである。
(エペソ5:8-9)
さらにパウロは、キリスト者の目標について語ります。
すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。(ピリピ3:10-11)
キリスト者の目標は、復活であり、天国に携え上げられること、
すなわち、神が「上に召して下さる神の賞」(ピリピ3:14)を得ることであります。
神は、その賞を得るために私たちを天国に行く競技場に呼んでくださったのです。
過去に未練を持たず、過去の失敗はきれいに忘れ、現在と未来を生きるべきです。
私たちは神の賞を得る時に向かって、その時を私たちの目標として、
競技場で後ろのものを忘れて前だけを見て走っていく競技者のように前進しなければなりません。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。
すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、
キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(ピリピ3:13-14)
みなさん、人生を生きている間、私たちは、やってくる問題にどのように対処するべきか、
どの道を選ぶべきか、たえず決定しなければなりません。
決定に与える一番おおきな要因は、どのような人生の目標を持っているかです。
目指している目標によって、一つ一つの決定が異なってくるし、それによって進む道も全く違ってくるのです。
信仰の焦点をこの世に合わせるのではなく、天国に焦点をあわせることが、キリスト者の人生の生き方です。