「生きて働く信仰」 2019.10.20
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。
神が、彼の供え物をよしとされたからである。
彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。
神がお移しになったので、彼は見えなくなった。
彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。
なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
(ヘブル11:1-6)
信仰とは何か。その答えは聖書に明確に記されています。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
(ヘブル11:1)
「望んでいる事がら」とは、心からの強い願いです。
かなえられてもかなえられなくてもいい、教会に来て座っていたら何となく心が落ち着いて慰められる感じがする、という程度の思いは信仰ではありません。
また、人間的な思いから生まれる願いではなく、聖書の御言葉を通して内に生まれる願いであり、神の御旨にかなう願いです。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
(ピリピ2:13)
「確信」とは、疑うことなく最後まで忍耐することです。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。(ヤコブ1:6-7)
今は目に見えず、耳に聞こえず、手に捕まえられない「まだ見ていない事実」であっても、すでにかなえられたと信じて待つことです。
御言葉を聞き、読み、黙想することで、神の約束を事実として受け取る。これが信仰なのです。
信仰によって神の奇跡を体験するには、信仰を口で告白しなければなりません。
すなわち御言葉の約束を疑うことなく信じて口で告白するとき、あなたの信仰は、生きて働く信仰として、人生の中で目に見える形であらわれるようになるのです。
イエスは答えて言われた、
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。
だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになるであろう。
(マルコ11:22-24)
アブラハムの信仰は、神が約束されたことは必ずそのとおりになると堅く信じる信仰でした。
だから神の言葉に従ってイサクを祭壇に捧げることができました。
私たちも、信仰を大胆に口で告白し、それを疑うことなく堅く信じ、実現したものとして見つめてください。
そうすれば、必ず神の奇跡の御業を体験できます。
信仰は、神が与えてくださった偉大なプレゼント、賜物です。
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
(エペソ2:8)
みなさん、生きて働く信仰をあらわして、神を喜ばせてください。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。
なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
(ヘブル11:6)
神は、人知ではかり知ることのできない奇跡の御業で人生を変えてくださいます。
ジョージ・ミュラー牧師は、祈りがこたえられるときまで絶対に放棄しないことが重要であるといいました。
人生のすべてのものは自分の思い通りに動かせるものではありません。
全ては神の御心と、神の摂理の中で、聖霊の力によって成し遂げられます。
わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。
あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
(ヨハネ14:16-17)
聖霊様わたしと共に歩んでくださいと告白しながら、御言葉の約束がかなえられたすがたが心に見えるまで祈り続けるとき、主は想像を超越する奇跡をあらわしてくださいます。