「信仰の根拠」 2019.10.13
どうすれば強い信仰を持ち、勝利の信仰生活を送れるでしょうか。
1. 「御言葉」に信仰の根拠を置く
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。
すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
(マタイ8:5-13)
百卒長とは、ローマ軍の百人隊の指揮官です。
イエスは、この百卒長の信仰をたいそうお褒めになりました。
その理由は、彼の信仰が神の御言葉の上に立つ信仰だったからです。
「信仰は理屈ではなく、根拠はないので、とにかく無条件に信じなさい」という人がいれば、その考えは誤りです。
信仰には明確な根拠があるべきです。
キリスト教の信仰の根拠は、神の御言葉です。
聖徒は、神の御言葉に立脚して信じることで、神に近づくことができるようになります。
御言葉に立つこと無しに信じているというなら、それは正しい信仰ではありません。
私たちは、十字架をとおして示された神の愛を思い起こすとともに、主の約束の御言葉を信じて、神の前に進み出るべきです。
そのようなときのみ、私たちは決して揺れ動くことのない強い信仰を得ることができます。
ですから問題にぶつかったとき、無条件的に祈るのではなく、御言葉を悟り、この悟りによる信仰を持って祈るべきです。
2. 「今も生きて働いておられる主」に信仰の根拠を置く
聖書に書かれた内容は、説話もしくは宗教的教訓ととらえ、奇跡やいやしはなかった、仮にあったとしても過去のもので現在は起こらない、と考える人が少なくありません。
そのような人は、いま神が御業を行われることを期待せず、祈ればちょっと心が落ち着くなどといったレベルで満足しておられます。
キリスト教信仰とは、そんな漠然とした気休めのようなものではありません。
聖書にはイエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない(ヘブル13:8)と書いてあります。
旧約時代にイスラエルのために戦った神は、今も、わたしのために戦ってくださいます。
旧約時代にわたしは主であって、あなたをいやすものである(出エジプト15:26)と言われた神は、今も、私たちの霊と肉と生活を治療してくださいます。
信仰は、過去形でも未来系でもなく、現在進行であり、私たちが人生の現場において、いま神の御業を体験することを神は願っておられます。
イエス・キリストは今も生きておられ、昨日も今日もいつまでも変わることがない方であることに信仰の根拠を置くべきです。
信仰は、私たちと神が出会う場所です。
あなたの信仰の根拠が「御言葉」と「今も生きて働いておられる神」にあるならば、神は「行け、あなたの信じたとおりになるように」と祝福してくださり、あなたは信仰の勝利を勝ち取るでしょう。