「棕櫚の主日の祝福を受けよ」 2019.4.14
今日は、「棕櫚の主日」です。
イエスがエルサレムに入られた日、
民衆は、棕櫚の枝を手に持ち、
また道に敷いてイエスを迎えました。
その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、
イエスがエルサレムにこられると聞いて、
しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。
そして叫んだ、
「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、
イスラエルの王に」。
(ヨハネ12:12)
イエスはエルサレムに入られ、
そして十字架に向かわれます。
教会では、イエスの受難を覚えて、
イースター(復活祭)の前の日曜日を、
「棕櫚の主日」として礼拝します。
今日は、当時、民衆がどのようにイエスを迎えたか調べてみることで、
棕櫚の主日の祝福について、考えてみたいと思います。
この日は、弟子たちがイエスの言葉に従うところから始まりました。
さて、彼らがエルサレムに近づき、
オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、
イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
「向こうの村へ行きなさい。
するとすぐ、ろばがつながれていて、
子ろばがそばにいるのを見るであろう。
それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、
主がお入り用なのです、と言いなさい。
そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
こうしたのは、預言者によって言われたことが、
成就するためである。すなわち、
「シオンの娘に告げよ、
見よ、あなたの王がおいでになる、
柔和なおかたで、ろばに乗って、
くびきを負うろばの子に乗って」。
弟子たちは出て行って、
イエスがお命じになったとおりにし、
ろばと子ろばとを引いてきた。
そしてその上に自分たちの上着をかけると、
イエスはそれにお乗りになった。
(マタイ21:1-7)
弟子たちは、これまで、いつも主の御言葉に従ったのではありませんでした。
しかし、この日、弟子たちは主の御言葉にそのまま従いました。
棕櫚の主日は、イエスを王としてお迎えする日です。
私たちが、主イエスを王として迎えるなら、
主の御言葉に従うことが、その第一歩です。
この日、民衆は、自分のものをよろこんで捧げることで主をあがめました。
群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、
また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、
「ダビデの子に、ホサナ。
主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
いと高き所に、ホサナ」。
(マタイ21:8-9)
弟子たちは、自分の上着を脱いで、ロバの背中にかけました。
民衆は、自分の上着を脱いで、道にひろげました。
これは、当時の王を迎える礼儀作法のひとつでした。
彼らは、イエスがお入用のものを、喜んで捧げた。
今日、私たちも、自分の時間、才能、心など、
自分のものを、主に喜んで捧げるべきであります。
この日、多くの民衆が集まって、
イエスをあがめ、迎えました。
今日において、信仰は個人の問題であり、
一人で家にいて信じることができるのに、
わざわざ集まる必要があるのか、という人がいます。
時間があって気が向いたら教会に行けばいいし、
気が乗らない日は礼拝に行かずにインターネットで礼拝すればいい、
神はどこにでもおられるのだから、
と考える人もいるかもしれません。
確かに、個人レベルでの学びや祈りは必要です。
しかし、ともに集まり、ともに祈ることも必要なのです。
ある人たちがいつもしているように、
集会をやめることはしないで互に励まし、
かの日が近づいているのを見て、
ますます、そうしようではないか。
(ヘブル10:25)
ペンテコステの日、120人が集まって祈ると、
彼らはみな聖霊のたまものを受けました。
集まって礼拝する中に、もっと大きな恵みがあるのです。
どんなに信仰の良い人も、教会から離れれば、
気づかないうちに信仰がさまようようになります。
集まることが重要なのです。
集まった民衆は、賛美と祈りでイエスを迎えました。
賛美は私たちの特権です。なぜなら、
天の祝福を前もって地上で味わうことができるからです。
教会に集まり、ともに賛美をささげましょう。
「ホサナ」は、いま救ってくださいという意味です。
この言葉は、讃美であり、同時に祈りでもあります。
ともに集まり、ともに祈りましょう。
いま救ってください、
いま助けてください、
いま癒してください、
いま祝福の道へと導いてくださいと、
切実に主に祈りましょう。
この日、多くの人が癒されました。
イエスは、エルサレムに入ると、
宮に入られ、いわゆる宮きよめをされました。
それから、イエスは宮にはいられた。
そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、
また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
そして彼らに言われた、
「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。
それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
そのとき宮の庭で、
盲人や足なえがみもとにきたので、
彼らをおいやしになった。
(マタイ21:12-14)
イエスを王として迎えるとき、
宮、すなわち私たちの体はきよめられ、癒されます。
イエスを教会の王として迎えるとき、
奇跡のおこる教会になります。
癒しのある教会になります。
愛があふれる教会になります。
以上が、棕櫚の主日の祝福です。
この祝福がみなさんの上にあたえられ、
勝利されることを願います。
シオンの娘よ、大いに喜べ、
エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
彼は義なる者であって勝利を得、
柔和であって、ろばに乗る。
すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
(ゼカリヤ9:9)