「神様の愛から離れさせないであろう」 2019.3.24
神は愛であると聖書に書いてあります。
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、
かつ信じている。神は愛である。
愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。(Tヨハネ4:16)
神の愛は、無条件の愛です。この愛は誰にも止められません。
無限の愛であなたを愛しておられます。
多くの問題を起こす、二人の不良息子がいました。
周りの人が、父親に、なぜあんなろくでなしを愛するのかと訪ねました。
すると父はこう答えました。
私の息子は完璧ではない。けれども、それが何だというのですか。
息子を愛するのは、彼らが私の息子だからです。
たとえ人々から指差され、ろくでなしといわれても、
私の息子だから、私はどうしようもない彼らを愛するのです。
主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、
あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。
あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。
ただ主があなたがたを愛し、
またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、
主は強い手をもってあなたがたを導き出し、
奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、
あがない出されたのである。(申命記7:7-8)
神が私たちを愛してくださっているのは、何か理由があったからではなく、
ただ愛してくださったのです。本当の愛には条件はありません。
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、
わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、
御旨のよしとするところに従い、
愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(エペソ1:3-5)
殺人をおかし、逮捕され、死刑判決を受け、
執行される日を待っている青年がいました。
マスコミにも報道され、まわりの人々は彼を非難しました。
しかし、この青年の父は、刑務所を訪ね、息子をなぐさめました。
彼に聖書を読んで、涙を流して祈り、
彼が平安な最期を迎えられるよう、力と勇気を与え続けました。
父は、こう言ったそうです。私の息子が罪を犯したのは事実です。
罪は憎いけれど、私は私の子を憎むことはできない。
どんな罪人でも、父の愛は誰も止められません。父の愛は無条件の愛です。
神はなぜ私のようなものを愛しておられるのか、考えてみたことがありますか。
神は私たちが完璧だから、良い人間だから愛するのではありません。
もしそうなら、ここにいることができる人はひとりもいないでしょう。
もちろんこの牧師も、ここにいることはできないでしょう。
イエスをキリストとして信じて神の子になったから、
神は私たちを愛してくださるのです。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、
彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ1:12)
私たちが罪を犯したにもかかわらず、醜いものであるにもかかわらず、
ろくでなしであるにもかかわらず、私たちを神は愛しておられる。
私たちが神様の子どもであるから神は愛するしかないのです。
神は、私たちが愛される条件を整えているから愛しておられるのではないことを、
忘れてはなりません。限りない愛、無限の愛であたしを愛しておられます
主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(エレミヤ31:3)
私たちが罪人であったときでさえ、神の側から先に愛してくださり、
ひとりの御子をつかわして、あがないだしてくださったのです。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、
御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(Tヨハネ4:10)
人間は生まれたときから、望んでも望まなくても、罪の中で生きていきます。
罪の病の中でうまれたのが人間であります。病の名前は、
ねたみを引き起こす憎しみ、
不安といらいらの根本となる恐怖、
劣等意識と無気力をもたらす挫折感、
自分を過大評価する高慢、
自分の分を超えようとする貪欲であります。
キリストの恵みによって救いを受け、愛を体験するとき、
これらの病は不思議に消え去ります。
愛は、どのような偉大な業績よりも優れたものです。
反対に、愛がなければすべては無に帰するのです。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、
もし愛がなければ、わたしは、
やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、
あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、
また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益である。
(Tコリント13:1-3)
人間は愛を与え、愛を受けながら生きるとき、
心に喜びと希望がうまれ、価値ある人生をいきられます。
仕事でも、家庭でも、私たちは愛を忘れてはなりません。
聖書に、愛の具体的な内容が記されています。
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。
(Tコリント13:4-7)
愛を実践しましょう。神の愛を行う教会になりましょう。
いくら愛しているといっても、行いがないなら、
愛は死んだものであると聖書は語っています。
わたしの兄弟たちよ。
ある人が自分には信仰があると称していても、
もし行いがなかったら、なんの役に立つか。
その信仰は彼を救うことができるか。
ある兄弟または姉妹が裸でいて、
その日の食物にもこと欠いている場合、
あなたがたのうち、だれかが、
「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、
そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、
なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、
それだけでは死んだものである。(ヤコブ2:14-17)
神は、罪を憎まれますが、罪をおかした人間をあわれまれます。
神は、捨てられて当然の私たちを理解しておられるゆえに、
ひとりの御子イエスをつかわし、
醜い、ろくでもないもの、捨てられて当然の私たちを救おうとされます。
パウロはこういいました。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。
患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、
ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、
わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、
現在のものも将来のものも、力あるものも、
高いものも深いものも、その他どんな被造物も、
わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのである。
(ローマ8:35-39)
神の愛を確信するとき、私たちの内に大きな変化が起こります。
真心をもって神の愛を知り、神の愛とひとつとなるとき、
魂を揺さぶる大きな変化が起きて、
憎しみ、恐怖、挫折感、高慢、貪欲、罪ののろい、
そして病に打ち勝つことができるようになります。
私たちを愛する神の愛によって、
私たちはこれらすべてのものに打ち勝って余りがあり、
どのようなものも神の愛から私たちを引き離すことはできません。
人類の問題の永遠なる答えは、唯一、神が私たちを救うために
与えくださったキリストの内にあらわれた神の愛だけです。
このような大きな愛の中で、必ずよいことが起こることを期待して、
この一週間を出発するべきです。
私たちの心の中で、神への愛が熱く燃え上がるとき、私たちはいつも神を賛美し、
神に祈り、神とともに喜び、神とともに歩むことのできる心を持つことができるでしょう。