「信仰の種をまきましょう」 2019.2.24
涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて
帰ってくるであろう。
(詩編126:5-6)
畑を耕し、種をまき、世話をすれば、
喜びをもって収穫できます。
信仰生活も同じです。
御言を教えてもらう人は、教える人と、
すべて良いものを分け合いなさい。
まちがってはいけない、
神は侮られるようなかたではない。
人は自分のまいたものを、
刈り取ることになる。
すなわち、自分の肉にまく者は、
肉から滅びを刈り取り、
霊にまく者は、
霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
わたしたちは、善を行うことに、
うみ疲れてはならない。
たゆまないでいると、
時が来れば刈り取るようになる。
だから、機会のあるごとに、
だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、
善を行おうではないか。
(ガラテヤ6:6-10)
イエスは一粒の麦として、
ご自分を捧げられました。
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、
豊かに実を結ぶようになる。
(ヨハネ12:24)
しかし、イエスは口で言い表せない
悩みと苦しみを持っておられ、
父なる神に切実に祈りました。
キリストは、その肉の生活の時には、
激しい叫びと涙とをもって、
ご自分を死から救う力のあるかたに、
祈と願いとをささげ、
そして、その深い信仰のゆえに
聞きいれられたのである。
(ヘブル5:7)
激しい叫びと涙で祈らなければ、
全人類の罪をあがなうという
重い荷を背負うことはできなかった。
主は体が切り裂かれ、血を流すことで、
あがないの種となられ、
死んで墓に葬られ、復活されました。
その結果、全世界に
救霊の実が結ばれたのです。
エリヤがザレパテに導かれたとき、
飢饉の中で死のうとしているやもめは、
神の約束を信じて、
かめの中にわずかに残っている一握りの粉と、
ビンの中の少しの油でパンをつくり、
エリヤに捧げました。
その結果、やもめは飢饉が過ぎるときまで、
喜びの束を刈り取るようになりました。
エリヤは彼女に言った、
「恐れるにはおよばない。
行って、あなたが言ったとおりにしなさい。
しかしまず、それでわたしのために
小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。
その後、あなたと、
あなたの子供のために作りなさい。
『主が雨を地のおもてに降らす日まで、
かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』
とイスラエルの神、主が言われるからです」。
彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。
彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。
主がエリヤによって言われた言葉のように、
かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。
(列王記上17:13-16)
飢饉の中で、最後に残った食料を捧げよとは、
一見、冷たい仕打ちです。このように、
神は、冷たい態度をとられる場合があります。
なぜなら、種をまき刈り取る法則において、
神は妥協されないからです。
涙をもってまくことをせずに、
喜びをもって刈り取ることはありません。
種をまき刈り取る法則によって与えられる恵みは、
神の助けが必要な切実な状況の中で、
悩み苦しみながら涙をもって種まくものにこそ
与えられるのです。
種をまき刈り取る法則は、
どうすれば実践することができでしょうか。
まくべき種は、物質や自身の体です。
神は、教会のために体を捧げているものに、
健康の祝福を与えます。
五つのパンと二匹の魚で、イエスが
5000人の群集に給食をされた奇跡は、
一人の少年が自分の弁当のパンと魚を
捧げたから起きたのです。
犠牲をともなわない種は、種ではありません。
涙を流して種をまかなければならないときは、
大きな収穫があることを期待するべきです。
神に時間を捧げるなら、
時間を祝福してくださいます。
物質を捧げるなら、
物質をもって祝福してくださいます。
体をまけば健康を祝福してくださいます。
そのように期待するべきです。
神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、
あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、
すべての良いわざに富ませる
力のあるかたなのである。
「彼は貧しい人たちに散らして与えた。
その義は永遠に続くであろう」
と書いてあるとおりである。
種まく人に種と食べるためのパンとを
備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、
それをふやし、そしてあなたがたの義の実を
増して下さるのである。
(第2コリント9:8-10)
種をまき刈り取る法則は、
すべてに適用されます。
刈り取る時期は、あるものはすぐに、
あるものは3年、10年、
もしくはそれ以上かかることもあります。
しかし種に命があれば、必ず収穫できます。
期待して、種をまきましょう。