「私たちが見る十字架」 2019.2.3
聖礼典には、
「洗礼(バプテスマ)」と「聖餐」の
二つがあります。いずれも、
イエスが定められました。
今日は聖礼典の意味を学ぶことで、
真の信仰について考えてみたいと
思います。
1.洗礼(バプテスマ)
洗礼の本来のやり方は、
全身を水の中に沈めます。
これは、キリストと共に葬られることを、
そして、水からあがることは、
キリストと共に復活することを
あらわしています。
それとも、あなたがたは知らないのか。
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを
受けたわたしたちは、彼の死にあずかる
バプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、
その死にあずかるバプテスマによって、
彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、
死人の中からよみがえらされたように、
わたしたちもまた、新しいいのちに
生きるためである。
(ローマ6:3-4)
ですから、洗礼を、単なる儀式と
とらえるべきではありません。
私たちは、キリストと共に
十字架の上で死に、
キリストと共に死に打ち勝って
よみがえったのです。
だから、罪は私たちを支配できない。
この事実を知り、認め、確認し、
日々告白しなければなりません。
イエスの十字架が、
「過去の歴史」「死んだ後に抱く希望」
とだけ認識しているなら、
信仰は、いまを生きる自分にとって、
何の望みもない、
空虚なものになってしまうでしょう。
信仰は、頭の中でだけ信じるのではありません。
信仰は、十字架を見物することではありません。
信仰は、体で体験するものです。
洗礼を通して、生きておられる主を、
身をもって体験することができます。
2.聖餐
聖餐式では、パンを食し、
ぶどう酒を飲みますが(礼拝では、
グレープジュースを用います)、
聖餐式もまた、単なる宗教的儀式と
とらえるべきではありません。
聖餐は、イエスの死の意味を
体得するものです。
すなわち、主イエスは、渡される夜、
パンをとり、感謝してこれをさき、
そして言われた、
「これはあなたがたのための、
わたしのからだである。
わたしを記念するため、
このように行いなさい」。
食事ののち、
杯をも同じようにして言われた、
「この杯は、わたしの血による
新しい契約である。
飲むたびに、わたしの記念として、
このように行いなさい」。
だから、あなたがたは、このパンを食し、
この杯を飲むごとに、それによって、
主がこられる時に至るまで、
主の死を告げ知らせるのである。
(Tコリント11:23-26)
私たちは、聖餐式を通して、
イエスの十字架の出来事に
参与することができます。
つまり、客観的には
2000年前の出来事ではあるが、
今ここで起きている
主観的な出来事としてとらえ、
その恵みに、そしてイエスご自身に
ふれることができるのです。
また、聖餐式は、
神と和解する時間であり、
聖霊の臨在を体験し、
霊と魂と肉体の治療を受ける時間です。
主は私たちの弱さを、心配を、病を
背負ってくださるのです。
この信仰を持って、キリストの
十字架を見上げてください。
3.聖典礼を通して神の願いを深く悟る
誰の人生にも苦しみはあります。
われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、
ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、
われらは飛び去るのです。
(詩篇90:10)
様々な戦いをしながら、弱さの中で、
叫び続けるのが、人の人生です。
しかし、先が見えず、
トンネルの中にいるように思えても、
トンネルがそうであるように、
必ず光は見えてきます。
私たちの重荷を負われる主は、
すべての問題を解決できる方です。
罪の問題で苦しんでいる方は
おられますか。
重い病の中で死を感じている方は
おられますか。
イエスの十字架を見上げてください。
キリストの十字架の恵みによって、
私たちは、悪魔の抑圧と病から
解放されたのです。
こういうわけで、
今やキリスト・イエスにある者は
罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにある
いのちの御霊の法則は、
罪と死との法則から
あなたを解放したからである。
(ローマ8:1-2)
ですから、罪ののろいは、
私の人生には一切関係がない。
この事実をはっきりと認識しないなら、
すべての行いは、
命を失った形式的な
儀式へと転落します。
頭の中の信仰、
死んだ信仰、
何の奇跡も期待できない信仰となり、
神の愛を知ることのない、
神の愛に包まれることもない
人生になってしまいます。
そうならないために、
神は、聖礼典を通して、
聖霊が、いつもあなたと共におられる事実を
悟ることを願っておられます。
聖霊様を認め、歓迎し、
寄り頼む者になりましょう。
聖霊様は、あなたの知恵となり、
あなたの相談者となってくださいます。
そして、真心から神を礼拝する力を
与えてくださいます。
私たちは聖礼典を通して、
体で十字架の死と復活を経験し、
キリストとひとつになって
人生を生きるようになりました。
神に救われ、神に愛される聖徒として、
勝利の人生を生きることが
できるようになったのです。