「人生が挑戦状を差し出す時」 2016.6.12

 

使徒パウロは、その肉体に何らかの苦痛の原因を持っていました。それが何だったのかはわかっていません。

パウロはそれを「とげ」と表現し、それが取り除かれるように何度も神様に祈りました。

しかし、その祈りは聞き入れられないばかりか、意外な答えが与えられました。

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。

それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。(Uコリント12:7-9

パウロが肉体の苦痛から逃れるように必死で祈っているのに、神は弱いからいいのだと言われたのです。

ところが、それに対しパウロはこのように宣言しました。

それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。

なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(Uコリント12:9-10

私たちキリスト者の生涯の最終目標は、この言葉に要約されるのです。

人よりも元気で、あれもできた、これもできた、という人生ではなく、「この私の中にどのように神の力が現れたか」がキリスト者の生涯の最終目標です。

神の力が完全に現れることが信仰の目標であるなら、病気もまた感謝です。弱いことも、全て感謝です。

もちろん、病気に対して癒しを熱心に祈らなければなりません。しかし、何が何でも癒してもらわねばならないという自分中心の熱心さだけがあって、神様のみこころも自分の弱さも認めない、そのような信仰を神様が喜ばれるでしょうか。

そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、

「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。(マルコ14:36

涙を流す人生は避けたい。明るいところだけを歩みたい。そう思うのが普通です。

しかし、そこにだけ目が向けられて、肝心の神に目が向けられているのか。そこがわからないとキリスト教信仰は、ご利益宗教になりかねないのです。

 

それでは、人生が挑戦状を差し出す時、私たちはどのように応戦するべきでしょうか。

第一に、人生が挑戦と応戦の絶え間ない闘いであり、喜びだけでなく悲しみ苦しみもやってくることを現実として直視すべきです。

生きているからこそ挑戦を受けます。つまり、挑戦状は自分が生きている証なのです。

第二に、挑戦を回避したり、人のせいにしたり、不平不満を口にするのではなく、その挑戦を自分のものとして受け止めることが大切です。

「神は時にはパンの代わりに石を置く」という言葉を聞いたことがあります。ある人はこれを恨みその石を蹴って足の指をケガし、別のある人はこの石を土台として家を建てる。人生の挑戦状に対し、どのように受け止め応戦するかによって人生は変わります。

第三に、人生がいかなる挑戦状を差し出してきても、決してあきらめず、希望を持つことです。

父なる神様の愛、十字架にかかられたイエス・キリストの愛、変わることなく慰めてくださる聖霊様の愛を信じ、希望を持って人生の挑戦状に応戦してください。

決して希望を失ってはなりません。主にある希望を持つことによって、必ず勝利へと導かれます。

あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33

世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。(Tヨハネ5:5

希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:5

 

以上

 

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