「アブラハムは主を信じた」 2016.5.8
今日は、信仰の父と呼ばれているアブラハムの信仰を学びたいと思います。
アブラハムは高齢になっても子に恵まれませんでしたが、ある時、神様がアブラハムに臨みました。
主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、
「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
アブラムは言った、
「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
アブラムはまた言った、
「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
この時、主の言葉が彼に臨んだ、
「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。(創世記15:1-4)
アブラハムは、自分も妻のサラも高齢だったので、自分たちに跡継ぎができると聴いても、それをすぐに信じることはできなかったでしょう。
そこで、神様は、アブラハムを天幕の外に連れ出しました。そして約束の言葉をアブラハムに告げました。
そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。(創世記15:-5)
私たちは、自分の力ではどうしようもないとき、人間的見解の束縛の外に出て、全能なる神を仰ぎ見るべきです。
いかなる状況にあっても、神を仰ぎ見れば、希望の光が見えてきます。
アブラハムは、人間的には望み得ない状況でした。しかし、彼は、神様を信じました。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
だから、彼は義と認められたのである。(ローマ4:18-22)
地を見れば苦しみばかり見えてきます。しかし、この世の道が閉ざされたとしても、無限の神を人生の資源とし、聖書のみことばを数えるべきです。聖書には私たちの人生を祝福する何千もの約束のみことばが記されています。
神様は、聖書のみことばを通して、全能の御手を伸ばし、人生を導いてくださいます。
信仰は、現実にみことばを照らし合わせることではなく、みことばに立って現実を受け入れていくことです。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル11:1)
このような信仰を持ち、みことばの約束を信じて現実の中を歩んでいくとき、アブラハムの祝福にあずかることができるでしょう。
以上