「死後の人生」 2010.11.7
人は死ぬとどうなるのでしょうか。ある人たちは死ねば土に帰りすべてが終わると考えています。
生まれ変わりを信じている人もいます。多くの人は、先祖を供養したり、お墓などにお供えしたりしますが、これは、死後にも何らかの生があるという潜在意識があるからでしょう。
では、聖書は死後についてどう言っているでしょうか。
ルカによる福音書16章に金持ちとラザロの話が記されています。
金持ちは、毎日ぜいたくに遊び暮していました。ラザロは貧しく、この金持の玄関の前に座り、その食卓から落ちるもので飢えをしのぎ、全身でき物でおおわれ、犬にでき物をなめられていました。ラザロはついに死に「アブラハムのふところ」すなわち楽園に送られました。
金持も死んで葬られましたが、金持ちは楽園ではなく黄泉(よみ)に送られ、火炎の中で苦しむようになりました。彼が目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えました。
金持ちが言いました。
『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』
アブラハムはこう答えました。 『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』
金持ちは家族の救いを願って言いました。 『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』
このように、聖書は、死後の人生があり、死後においても人格があり、生前の記憶を有し、地上に残した家族や血縁者の心配もすると語っています。
今日は、召天者記念礼拝です。先に亡くなられたかたを思い起こし、彼らの平安を祈りたいと思います。先に天に召された方々もまた、地上に残した家族の祝福と救いを、イエスのみ前で祈ってくれていると私は信じています。
私たちの命は、この世ですべて終わるのではありません。聖書は、神を否定し、日夜宴楽にふけって自分の欲望を満たすだけの人生を送った者に対し、裁きと刑罰があることを警告しています。
家族の救いを願った金持ちとアブラハムとの会話は、次のように展開します。
アブラハム 『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』
金持 『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』
アブラハム 『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』
「モーセと預言者」とは、旧約聖書のことです。つまり、聖書の警告に耳を貸さない者は、たとえ死からよみがえって警告する者があっても聞き入れないに決まっているということです。
人生は旅のようなものです。あっという間にこの世を通り過ぎます。私たちは、決して長生きすることを究極の目的にしてはいけません。
「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」(第2ペテロ3:8)
私たちの命は「しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブ4:14)のです。
ですから、この世で生きている間に備えをしましょう。イエスを信じて受け入れた者には永遠の命が保証され、天国に「すまい」が用意されていることが約束されています。
神が与えて下さったこのチャンスをいかして下さい。地上で肉を着て生きているあいだに、イエスを信じて救いの恵みにあずかってください。
今が恵みの時です。そして、自分のそばにいる人たちに優しく接して、悔いのない人生を過ごしましょう。
以上