「罪のゆるしの祈り」 2010.10.10

 

「罪」とは、一般的には人から物を盗んだり人を傷つけることであると思われています。聖書において罪とは、神への感謝もなく、人をあわれむ心もなく、自分の思いの欲するままに自分さえよければよいとする自己中心のことであります。

この罪を、決してあなどってはなりません。人生を支配し、人間存在をむしばむ力を持っています。

「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ人への手紙6:23)

罪から解放されるためには、神に立ち返るしか方法はありません。神は人をゆるし、あわれみ、恵みを与えてくださいます。

「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。」(詩篇130:1〜4)

ですから私たちは、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」と、日ごとに罪のゆるしを求めることが必要です。

この祈りで大切なことは、罪のゆるしを神に求めると同時に、自分も他者をゆるしますと祈るということです。もちろん、神のゆるしは、恵みにより信仰によって無条件に与えられるのであって、人の行いを条件に与えられるものではありません。しかし「私は神にゆるされているので、私も他者をゆるすのです」と自発的に思うことがこの祈りの根本であります。

しかしながら、他者をゆるすことは、とても難しいことです。今日の聖書箇所はそれをよくあらわしています。

それだから、天国は王が僕(しもべ)たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。

その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。

その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。

あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(マタイによる福音書18:23〜35)

私には母と二人の姉、ひとりの弟がいます。財産も持ち家もない母に対し、私は結婚してからずっと毎月仕送りを続けてきました。

ある日、二人の姉が仕送りをしていないことに気づき、私は牧師でありながら、つぶやきました。弟に、なぜお姉さんたちは私よりも裕福な暮らしをしているのに、仕送りをしないのかとたずねたのであります。

弟は、親の援助はできる者がしたらいい、お姉さんたちは結婚して夫がいるからなかなかできないのだろうと言いました。そして、親のために何かできるということは幸せなことだと、10以上も歳のはなれた弟にさとされて、私はこのことを忘れることにしました。

人とのトラブルや人間関係のもつれの原因は、相手の罪をあばきたて、相手の弱さを思いやることをせず、誤りを責め、あくまでも自分は正しいという立場をゆずらないことにあります。

嫁と姑のいさかい、親子関係の断絶、兄弟間の不和、仲間同士の争い、そしてキリスト者同士の間でも問題は絶えません。ゆるすことがいかに難しいか、これを真に理解するとき、神のゆるしの恵みの深さをさとることができます。

他者をゆるすということは、一言でいうと「自己放棄」です。神は、キリストの十字架のあがないという自己放棄により、全人類の罪をゆるされました。

罪に対し、人には互いに共同責任があります。泥棒はもちろん悪いことですが、盗まれる側にもスキを与えた責任があります。犯罪をうんだ社会にも責任があるでしょう。

「自分も悪かった」という気持ちを持てば、すべては改善の方向にすすみます。自分だけがゆるされても、人は幸せにはなれないのです。

 

以上

 

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