「人生の目的は何か」 2010.7.11
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。(イザヤ書6:3)
万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。(ローマ人への手紙11:36)
今日、好きなことだけをやりたがる精神が日本人の心を支配しています。多くの人が、好きなことをやることに人生の意義を見出そうとし、人生の目的は好きなことをやることだと思い込んでいます。就職も、結婚も、全てこの価値観で選択します。しかし、そのような価値観や生き方が、人生に意義と幸福をもたらしたでしょうか。現実の社会は厳しく、夢は破れ、多くの家庭にすきま風が吹き、夫婦は離反し、親子は対立しています。
ある人たちは、学問や芸術に打ち込み、人生の意義を見出そうとします。確かにそれは高貴な人生の追究です。しかし、学問や芸術は、何のために行うのでしょうか。
また、ある人たちは何らかのイデオロギー(主義)の中に人生の意義・目的を見出そうとします。人道主義、友愛精神などのイデオロギーは、一見よいもののように思われがちです。理想的であるように聞こえ、人を魅了し、夢中にさせます。しかし、人を助ける気持ちがない人が、友愛や人道主義を語ることに何の意味があるでしょうか。
以上に述べた生き方、価値観は、全て「自己中心」に根ざしています。極端な自己中心が現代の日本人の中に蔓延しているのです。自分の好きなことやり、興味の赴くままに学問や芸術を追い求め、自分の主義主張を達成する、そのためには時には他者を犠牲にすることも厭わない。このような自己中心の生き方が生み出すものは、ただの自己満足です。
学問、芸術、イデオロギー、これらは何のためにあるのか。それは、それを通して神に仕えるためにあるのです。聖書において、神に仕えることは、人に仕えることと同じです。神に仕え、人に仕えようとしない学問や芸術、イデオロギーには何の意味もありません。仕事さえも、人の助けのために用いられなければ意味を持ちません。
自己中心の生き方は、結局、自己を満足させる対象の奴隷となる生き方です。そのような人生に意味は見出せません。私たちは、「自己中心」から、「神中心」の価値観に転換しなければなりません。これこそが人間存在の本質です。
愛する皆さん、立ち止まって自分は何のために生きているのか、人生の目標は何か振り返ってみてください。そして、神中心の価値観に立ち、神の栄光を求めて生きること、人生の目的はそこにしかないことを悟らなければなりません。
そのような生き方を実証した人がいます。それは、イエス・キリストです。イエスはサタンの誘惑を受け「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。と言われた時、
「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
と答えました。また、サタンがイエスを宮の頂上に立たせて「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。と言われた時、
「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
と答えました。さらにサタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と言った時、
「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
と答えました。イエスは、父なる神だけに従うことを徹底され、ほかの道に誘惑されることはありませんでした。これこそが信仰の道、めぐみの道です。イエスによって開かれた道こそが、人を人たらしめ、世界を栄光の舞台とする道です。そこに人間の存在価値があり、生きる目的があります。