「信仰のみによって救われる」 2010.6.20
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。
そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ人への手紙3:21-26)
宗教の本質は、「救いが与えられる」ということです。救いとは、一般的に「困窮状態からの解放」と、「精神的・内面的状態において一切のことがらから自由になること」であると考えられています。その代表は仏教であり、原始仏教においては移り変わるものにとらわれず、一切を超越する自由を獲得するための哲学的思索、観念的な深遠なる教えであると思います。
これは、キリスト教の救いとは根本的に異なります。キリスト教では、救いは自分で考えたり一生懸命努力すれば獲得できるものではありません。そもそも人間は、自主自存の存在ではなく創造主である神によってつくられた被造物であり、したがって救いとは、自らの行いや、まして自分で自分をゆるすと宣言したところで獲得できるものではなく、あくまで創造主なる神の側から与えられるものである、ということであります。
聖書は「すべての人は罪を犯した」と、罪のない人はひとりもいないと語っています。そのために「神の栄光を受けられなくなって」しまったのだと。そして、その結末は永遠の滅びであると語っています。ですから、罪ゆるされ、罪から解放され、永遠の滅びから救われて永遠の命があたえられることが救いの本質なのであります。
愛なる神は、一人たりとも滅びに至ることを望まれず、むしろ一人一人が高価で尊い存在であるとして、すべての人類のために罪のゆるしのわざを行われました。それがキリストの十字架であります。
わたしが大学の神学部で学んでいたとき、家が代々のお寺であったが今はキリスト教の教師になった人が大学院で教えていました。彼によれば、仏教はすぐれた教えだが、救いに対する教えがない。しかしキリスト教は十字架の福音があり、自分は十字架の犠牲とあがないを信じたので、僧侶からキリスト教に転じたと言っていました。
キリストは、十字架によって悪魔の力を打ちくだいて罪ののろいから人を救い出されました。ですから十字架の前に荷を降ろして祈るとき、悪しき霊の支配に打ち勝つことができます。また、キリストは私たちの罪の身代わりとなり、犠牲となって、罪の対価を代償してくださいました。このような救いの道はキリストの十字架以外に見出すことはできません。
キリストを信じることには二つの側面があります。それは悔い改めと信頼です。神は行いではなく、どのような心で神の前にいま立っているかを問題にされます。罪からの解放とゆるし、そして神がそなえておられる全ての祝福は、ただ信じることで与えられます。それは悔い改めて神に方向転換し、キリストを信じた者に与えられる一方的な神の恵みです。善行や努力の結果ではありません。人は信仰により、恵みによって救われるのです。