「自分の病のために三度祈る人」 2010.5.9
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリント人への第2の手紙12:7-10)
本日の聖書箇所は、使途パウロが「肉体に一つのとげ」すなわち何らかの重い病を持っており、そのために彼は神に再三祈ったことに対して、神からの答えが与えられたという内容です。
その答えとは実に意外な内容で、神は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と仰せられたのであります。
このことからパウロは、弱さこそが神の力が発揮される場所であることを悟り、「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」という心境へと変化し、「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。」という境地に至りました。それは「わたしが弱い時にこそ」神の力が働いて「わたしは強いからである。」という逆説的な真理に到達したからでした。
パウロは、新約聖書の多くの部分を記した人物であり、大説教者であって、彼の祈りはすべての人の救いを願う雄大かつ壮大なものでありました。それと同時に、本日の聖書箇所に見られるように、彼は自分の個人的なことについても熱心に祈っていたことがわかります。
このことから、わたしたちは、個人的なことや小さなことについても熱心に神に祈るべきことを学ぶことができます。第38代横綱の双葉山はどんな相手と取り組む場合でも全力で闘ったといいます。それと同様に、わたしたちはどんな小さな問題であったとしても全力で神に祈るべきであります。 鉛筆一本をさがすために祈ることのできる人は、人生の危機のときにも祈ることができます。
また、自分のために熱心に祈る人は、他者のためにも熱心に祈ることができます。なぜなら自分を大切にする人は他者も大切にするからです。日々の忙しさの中で他者に対して、特に身近な親や兄弟に対して無関心になってはいないでしょうか。わたしたちは相互に依存しあうことによって、人間たりえます。人は他者とのかかわりによって幸せになります。人のために尽くすとき、人は生きる意義を見出すことができるのです。
イエス・キリストもまた十字架にかかる前、父なる神に3度祈られました。わたしたちもキリストにならい「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36)と、全知全能の神を信じて、小事にも大事にも、自己のためにも他者のためにも熱心に祈る者となれるよう、主の御名で祈ります。