「水と霊とから生まれなければ」     2010.4.25

 

今日の聖書箇所は、ヨハネ福音書に記されたイエスとニコデモのやりとりの場面です。ニコデモは、ユダヤ人の指導者のひとりで、サンヘドリン(ユダヤの議会)の議員でした。宗教的にも政治的にも実権をもつ人物です。彼は驚くべきことに、サンヘドリンから神を冒涜しているとみなされていたイエスのところに相談に来ました。よほど思いつめた、おそらく必死の心境であったにちがいありません。彼は人目を避けて夜イエスのもとにやって来ました。

イエスは、ニコデモの心の核心をずばりと突く言葉を投げました。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。(ヨハネ3:3)

これに対しニコデモはこう答えます。「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。(3:4)

この部分は、ニコデモはイエスの真意を理解できなかったので、もう一度お母さんのお腹の中に入って生まれなおすのですか、などという発言をしたのだと解釈するのが一般的です。しかし、本当にそうでしょうか。ニコデモはユダヤ人の指導者(3:1)であり、イスラエルの教師(3:10)です。おそろしく聖書に精通した人物です。だからイエスの真意は痛いほどわかったうえで、ニコデモは、ユダヤ人としての宗教的伝統に強く縛られて生きてきた私がいまさらもう一度やりなおすことなど到底できない、と言っているのだと私は思います。ニコデモは、そのような束縛の中で苦悶していたに違いありません。

私たちは、ニコデモの苦しみを他人事と言えるでしょうか。もしあなたが、洗礼を受けてもクリスチャンになる前とちっとも変わっていないと痛感しているなら、あるいは自分の弱さに苦悶しているなら、また本当は違う道があるのではないか、ちがう生き方をしたいと思いながら何一つ変えられない現実がある、というのであれば、次のイエスのことばを受けとるべきです。

「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。(3:5−8)

新しく生まれる、つまり「新生」とは、神とともに歩む祝福された人生を再出発させることです。イエスは、新生は「水と霊とから生まれる」ことによって与えられると語っておられるのです。

水とは水のバプテスマ(洗礼)のことです。水のバプテスマは、自分の考えを完全に放棄し、自分に死ぬことを意味します。水の中に古い自我を葬るのです。日々新しく、いきいきと前に向かって進みたいのになぜできないのか。それは古い自我、死んだはずの自分が出てくるからです。

しかし、神はそのような私たちの弱さをよくご存知です。そこで神は、助け主である聖霊を送ってくださいました。「霊から生まれる」とは聖霊のバプテスマのことです。「風」は聖霊のことです。

では、聖霊のバプテスマ、聖霊による新生は、どうすれば体験できるでしょうか。その答えをイエスはこのように説明されました。「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(3:14−15)

これは、イスラエルの民が荒野でへびにかまれた時、モーセが神の命によって青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置き、へびにかまれた者がその青銅のへびを仰いで見て生きたという、旧約聖書の民数記の記事がもとになっています。さおの上に掛けられた青銅のへびは、十字架につけられたイエス・キリストの予表です。つまり、聖霊のバプテスマは十字架のイエスを仰ぎ見れば、ただ見るだけで与えられるのです。

その人がどんな人かは関係ありません。何をしてきたかも関係ありません。ただ見るだけで聖霊の働きがあらわれるのです。この世で生きる間には、へびにかまれて毒が全身にまわるような人生の苦しみや不安におちいるときがあります。どうかイエスを見上げ、十字架のもとにすべての重荷を下ろしてください。かならず聖霊の助けが与えられます。環境が変わり、あなたの心が変えられ、病がいやされ、問題が解決します。危険がうようよある人生の中にあっても、へびの毒から救われて安全に旅をすることができるのです。

 

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