「愛は無作法をしない」 2010.1.17
アウグスティヌスは、「美しいものは、部分が全体に適合しており、部分の美しさと全体の美しさとが調和をとっている。」という意味のことを言っており、彼はこれを「適合の美」と呼びました。
この「適合の美」は教会にとっても不可欠な要素です。
この点に関し、パウロは、教会はキリストをかしらとする一つの体で、信徒ひとりひとりはその肢体であるとし、
「目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。
麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。
神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」(Tコリント12:21〜26節)
と語っています。
次にパウロは、愛の性質についてこう語ります。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。」(同13:4〜8)
今日はこの中の「愛は無作法をしない」という部分に注目したいと思います。
「無作法」の反対は「その時その場にふさわしい」「ぴったり適合している」「グッドマナー」などであり、したがって無作法とは「適合の美」に反するものであって、「粗野」で「礼儀知らず」な振る舞いであります。
家庭、職場、地域社会、教会といった共同体をこわす要素を持っていると言っても過言ではないでしょう。
私たちには自由に行動する権利がありますが、すべてが益になるわけではありません。
そこに愛がなければ「いっさいは無益」なのです。
愛はすべてに通じる道であり、「最もすぐれた道」であります。
各人に聖霊によって神の愛が与えられ、その歩みが全体に適合し、美しい調和を生み出すようになることを、主の御名で祈ります。