「神の責任と人の責任」 2009.8.2
先日から、土砂災害が多くありました。多くの家や人が生き埋めになり、老人の施設が被害にあい、日本中が心を痛めました。このような災害があると、どうして愛の神が支配している世界に悲惨な災害がおこるのか、という疑問がおこります。
このような疑問がおこるのは「神は人を愛さなければならない責任がある」という前提が、私たちの心の中にあるからではないでしょうか。しかし、そもそも、神は人を愛さなければならない義務や責任があるのでしょうか。
私たちには、私は親だから、子は、もっと私を愛してくれてよいはずだ、という認識が心のどこかにあるのではないでしょうか。一方、子も同様に、自分は子なのだから、親はもっと自分を愛してくれてよいはずだという思いをいだいています。しかし、このような思いを双方が持ち続けるだけでは、いつまでたっても正しい親子関係は成り立ちません。神との関係においても同じことが言えます。今日の聖書箇所は、神に責任を追及することへの反省をうながしています。
ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。」 (ローマ人への手紙9:20-21)
人は、自分の負っている責任を忘れ、神の側の責任ばかりを考えますが、神は責任を追及されないお方です。むしろ、ありのままで受け入れてくださり、ひとり子イエスを賜るほど私たちを愛してくださり、イエスの十字架によって過去を問うことをされないお方なのです。
創世記には、神から与えられた私たちの責任が記されています。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28) 神は、人に自然を管理する責任を与えられたのです。多くの災害は、私たちがこの責任を果たしていないことに原因があります。
神が私を愛するために存在していると考えるなら、あまりにも幼い信仰といわざるを得ません。自分の権利だけを主張するのではなく、自分が世界に対して負っている責任を考えるべきです。
神の恵みを忘れることなく、神の権威をあなどることなく、自己に与えられた責任を正しく受け止めることが、かしこい生き方であり、神の祝福につながります。
以上